鳩山政権発足6ヶ月ということで、マスメディアではいろいろな評価が行われています。また、町の声などもたくさん拾われています。全体には50点弱という感じです。結局、でも、この評価は鳩山政権の評価であると同時に、それを選んだ日本国民自身へのつまり自分自身への評価であるわけです。
そのあたりのことをどれだけの人が意識して、「鳩山は・・・」といっているのでしょうか。
僕自身でいえば、結局民主党でも自民党でも対して変わらない。やっぱり我々日本人の政治意識はこんなものか、という自嘲に満ちたものです。物事が変わる時の多くは、上からではなく下からという場合がほとんどです。
そういう意味で、民主党政権がどうだということもありますが、皮肉にも鳩山邦夫が自民党を離党したり、谷垣体制への批判が内部から出てきたりと、長年政権を担ってきた自民党が揺れ動いているという動きのきっかけとなったというのは、ある意味評価できる(自らをということです)のではないかと思います。
政治はやっぱり金の動きと連動しますから、よっぽど大きな体制の変化がないと、基本的には変わらないのではないでしょうか。
そんなことを、ニュースを小耳に挟みながら、考えました。
今日は、朝食を食べてから、だらだらと10kmほどジョギングをしました。早朝はとても寒いけど、9時を過ぎると、ちょっとは知ると汗ばむくらいに暖かい日が続いている。今日もそんな一日で、僕たちは外苑前の銀行に行き、ちょっと知人の事務所に品物を届けてから、赤坂見附→皇居→麹町→四ッ谷→大京町(知人の展示会を見学)→外苑→千駄ヶ谷というルートを走ったということです。
千駄ヶ谷辺りで昼食を食べようと物色していたら、アジアンテーストの家具屋さんがバーゲンをしていて、僕は読書用の肘掛け椅子を買ってしまいました。数ヶ月前から、読書をする時に、肘をしっかり支えてくれる読書椅子が欲しかったのです。イタリア製でしっかりした木の枠で、座の部分が革張り、背中のカーブもとても良い感じなのです。今日は、午後からいろいろバタバタ忙しくて、じっくり椅子に座って本を読む時間が取れなかったけど、明日は、日長一日この新しい椅子を堪能しようと、ワクワクしています。
下の写真が件の椅子です、いいでしょ。座席においてあるのは、これまたお気に入りのイランの椅子用絨毯です。
10月30日、新妻由佳子のワンマンLIVEin曼荼羅@南青山に行ってきました。由佳子のLIVEは久しぶりです。
今回はゲストに村上ポンタ秀一さんが話題でしたが、実は裏ゲストの由佳子の妹でミュージカル女優の聖子ちゃんと由佳子の初競演が大きな楽しみでした。
ポンタさんのドラムはやっぱりすごい!打楽器であれだけポンタワールドを作り上げてしまうのは、すごいとしかいいようがないですね。僕たちは(玲子さん、友人の松園さん、綾ちゃん+その友人)ピアノの後ろで、ポンタさんのドラムの正面あたりに座っていたので、ポンタさんのドラムがばっちり聴きやすいポジションだったのです。
由佳子の歌は、本当に安定していて聴きやすかった。2年半前に同じ曼荼羅でワンマンLIVEをした時と比べると本当に安心して聴けました。多分、歌がうまくなったとか、声が出るようになったとか、そういうことではないのだと思うのです。ポンタさんのポンタワールドのように、そこまでは行かないにしろ由佳子ワールドを作ろうという意識が出てきたのか、そういう世界が出来てきたのかそんな感じを僕は受けました。
裏ゲストの聖子ちゃんは、来年1月に上映開始となる、自身が主演の映画「アンダンテ~稲の旋律~」映画主題歌を歌いました。この歌は、作詞新妻聖子、作曲新妻由佳子と、姉妹による競作でもあります。
やっぱり、聖子ちゃんの歌は本当にすばらしい。舞台で聴いてもそうなのですが、LIVEハウスで聴くとその歌唱力も声量も圧巻でした。そして、バックでピアノを弾く由佳子のピアノもとても愛情のこもった、優しい音色でした。聖子ちゃんはしっかり、歌を聴かせる、音楽を聴かせるという「仕方」を意識しているし、それがわかっている人なのだと思いました。そこにはすでに、聖子ワールドのようなものがあるように思われました。
僕は、今回のLIVEを聴いて、由佳子の歌を安心して聴けた、という感想を持った、と書きました。これはどういう意味かというと、実は由佳子の由佳子らしい歌の世界が見えてきているのかもしれない、と思ったのです。
これまで、何年か由佳子の歌を聴いてきて、年を追う毎に上手になり、安心感が増してきたのを覚えています。でも、今回の安心はそういうのとは違うのです。「前回より上手になって安心した」という事ではないのです。それはきっと、由佳子が自分の歌の世界はこういうのだ、というのを意識して、分かりつつあることから来ているのではないかと思うのです。
その現れは、とにかく今回のLIVEは楽しかった、由佳子の歌った歌すべてを僕は楽しめたのです。それは、共演者がどうのこうの、歌が上手になったということとはまた違う次元の話なのですね。
由佳子の楽しいLIVEを楽しんで帰りながら、僕はそんなことを考え、「飾りじゃないのよ涙は」を口ずさんでいたのでした。
表題の「BUKAS」はタガログ語で明日という意味です。「BUKAS BUKAS」と二回くり返すと、「明日に向かって進む」という意味です。
僕は、この夏休み、15名の明星大学生とフィリッピンに行ってきました。この学生達のチーム名が「BUKAS」です。
あるNPOの企画する「ボランティア スタディー ツアー」の一環で、明星大学バージョンの企画になっています。この企画は、NPOと学生達が討議しながら考えたプログラムです。
宿泊棟のベースキャンプはP&Jという乳児院です。そこでも、子どもたちと遊んだりしました。他には、公立の孤児院、老人ホーム、幼稚園・小学校で作業や交流をしてきました。また、いわゆるフィリッピンの人々が買い物をする市場にも行きました。東京でいうと巨大なアメ横みたいなところです。
彼らの一番の目的は、フィリッピンのストリートチルドレンとの交流でした。その為に、日本にいる時から、週1回以上集まって準備をしていました。現地に行っても、子どもたちの前でするパフォーマンスやタガログ語も勉強していたのでした。
条件的には、最初は広場で交流をするつもりだったですが、かなり雨が降っていたため、狭い室内+庭のような場所で行いました。
子どもたちにパフォーマンスを見せ、シャボン玉やお絵かきで遊びました。数時間の交流でしたが、子どもたちも学生達も入り交じって遊び、本当に楽しそうでした。こちらから何かを上げるというよりは、混じり合いながら遊んでいたのが印象的です。
学生達はとても満足したようです。そして、子どもたちも一緒に楽しめたみたいで、最後にはその場で覚えが日本語で「あろがとう!」と合唱してくれました。
そのとたん、学生達の眼からは涙がボロボロでした。
日本に帰って1ヶ月(未だ1ヶ月なんだ、という感じですが)、先日学内で発表会をしました。いろいろな学内団体は10分ほどで行う報告会だったですが、「BUKAS」は1年生が発表しました。その発表をみていて、行く前と後で何て変わったんだろうと、内心驚いていました。
外国に行って何かをする、という体験が彼らをとてつもなく成長させたんだなと思いました。できたら、来年以降も、同じかどうかは分かりませんが、外国に行って何かをするというプログラムをやってみたいな、と思いました。
ちなみに、11/1,2,3は明星大学の学園祭(星友祭)です。「BUKAS」はそこでも展示報告をします。3日は映画の上映もします。良かったら、見に来てください。
今日通勤の電車の中で新聞を読んでいたら、突然明星大学からオリンピック選手を輩出しよう!という妄想が浮かんできました。読んでいた記事は、昨日報道されたロンドンオリンピックに導入される、新しい種目の話でした。その種目は「7人制ラグビー」です。僕が思ったのは、特に女子でした。
日本では女子ラグビーは一部の地域や学校で細々とやられています。本当にマイナーです。しかも、7人制は少ないのではないかな。
だから、人数を集めて、そこそこ運動をやってきた学生を鍛えたら、全日本クラスを一人二人育成する可能性は高いのではないか、と考えたのです。
7人制は15人ラグビーと比較すると、体格よりもスピードと器用さです。ある程度のスピードでしかも、器用にボールを回したりできれば、世界に対抗するのは厳しいとしても、アジアで1位2位になり、オリンピックに行く事は、可能性の範囲にあると思うのです。2016年には間に合わないかも知れないけれど、2020年なら何とかなるかも知れない。
来年から10年計画というのが僕の妄想です。どうでしょうか。
20日新妻由佳子(http://ameblo.jp/yukakolovespeace/)のLiveに行ってきました。
場所は吉祥寺のジャズ喫茶メグです。ここは僕は高校時代~大学生の頃まで、入り浸っていたジャズ喫茶です。僕のジャズの原点ですね。
ゆかこは以前もここで歌ったことがあるのですが、とても因縁を感じました。
今回は、僕が関わっている「命のメッセージ展」(http://www.inochi-message.com/)の主宰者の鈴木共子さんとゆかこを引き合わせたかったのです。で、当日は「命のメッセージ展」の他の関係者と我が社(THINK OUT OF THE CASE株式会社:TOOTC)の三雲と6人で押しかけました。
この日のLiveはBirthdayLive すなわち、ゆかこの誕生日Live でした。だから、友人知人がたくさん来て、しかも本人はとてもリラックスしていて、歌もとても素晴らしかったのです。
Liveは3ステージでしたが、我々は第2ステージで失礼しました。終わった後、鈴木さん達はお家が遠いのですぐ帰りましたが、僕たちはメグの近くのチャイニーズを軽く食べて帰りました。
北関東にある、単科の工業大学で、去年の7月頃から、約半年就職講座をやってきました。そして、来週は大学主催の企業セミナーが開催され、200社ほどの企業が来るようです。僕は、3年生最後の授業ということで、この「企業セミナーに参加する際の意識」と「自己紹介カードの書き方」という講義をしてきました。
自己紹介カードは得意科目、長所、学生生活で学んだことをそれぞれ2行でかくという簡単なものです。
参加の意識では、1)就職に本気になろう、2)積極的になろう、3)自分のことを伝えるエピソードを考えていこう、4)めざす企業への質問事項を一つ考えていこう、5)自分がどういう行き方をしたいか、もう一度考えよう、ということを伝えたくて、それでも30分ほど話をしました。
この大学の学生は、とても素直でまじめです。でも、跳ねるということをあまりしません。見た目ヤンキーみたいな学生がいるのですが、話してみると素直でまじめなヤンキー(?)なのです。でも、就職活動ではある意味跳ねる事も必要なのではないでしょうか。業種や企業によっても違うのでしょうが、それでも今の時代、まじめに通りいっぺん出来る人間も安全パイで必要でしょうが、本音はとんでもない発想をする、とんでもない行動をする人間が求められているように思うのです。
多くの学生がそういう跳ねっ返りの部分を持っているのにもかかわらず、それをしまい込んでしまっているのです。僕は、就職ではそれを出した方がいいよ、とよく言います。
結局就職も勝負みたいなところがあって、君は何処で勝負するの、ということだと思うのです。残念ながら(幸運なことに・・・かもしれません)、この大学は偏差値では勝負出来ません。だから、自分が何処で勝負するかを、自分で決められるのです。・・・やっぱり幸運だ。でも、幸運はそれを使わないとダメなのです。多くの学生が、偏差値で勝負するような仕方をするのです。これは言い換えると「マニュアル的な」になります。
その事をどう気づかせられるのかな、といつも僕は考えています。かなり強気で言いますが、僕はほぼ全員がそういう自分の勝負の仕方を持っていると信じています。それは、全ての人間が持っている可能性だと思います。
僕はそういうみんなが持っている可能性を、それぞれに発揮して、みんなが幸せになれる、そういう社会が必要だな、と思うのです。
今日は青梅マラソンでした。僕は久々のレースで、30kmを完走しました。しっかり練習していた頃のタイムには及びませんでしたが、30km走りキレたことがとても嬉しかったし、フルも走れるという感触もつかめました。そして、もう少ししっかり練習をしようという気にもなりました。
青梅は、青梅線の河辺駅辺りから、沢井の先まで行って折り返すコースです。山岳マラソンではないですが、普通の市民マラソンとしては結構ハードなレースです。応援の方もたくさんいて、ちょっとしたお祭り騒ぎ状態です。
レース後は、拝島にある
「湯楽の里」という日帰り温泉に寄って、しっかり疲れを取り、食べ帰ってきました。
この休みは、加藤周一を読んでいる。きっかけは、昨年無くなった最も大きな知性ということとNHKの番組でやっていた「言葉と戦車」のドキュメンタリーだ。
「言葉と戦車」は絶版となっていてがっかりしたのだが、加藤周一著作集第8巻に納められていることを知って、即図書館で借りたのだ。その第8巻の「言葉と戦車」のすぐ後に「丁丑公論私記」というエッセイがあって、とても面白かった。「丁丑公論」は福沢諭吉が西郷隆盛への世論の避難を批判する文章への評論である。特に、70年代の日本の政治状況との比較として書かれている。
その中で、国民の利益を考える文章があって、加藤が下記のように国民の利益を書いている。
1)平和;戦場に人を送り、町が崩壊するのは国民の利益に反する
2)住み良さ;空気・水・安全・仕事、家があること
3)生き甲斐、働き甲斐、自分自身に対する誇り;社会への参加意識、存在意識
1970年に書かれた内容だが、2009年の今読んでも古さを感じるどころか、今の日本の抱える問題そのものである。加藤周一の視線の鋭さ、先見性ということももちろんだが、僕はこのような形で根本的な問題の建て方自体、今とても必要なのではないかと考えるのだ。
今の日本の状況の中で、国民の利益とは何だろうか。今の政治がこのような視点を持っているか。否である。実は、政治家や経済界、官僚だけの問題ではない、知識人も国民もこのような視点をどこかに忘れてきているのではないだろうか。
だから、日本中がバラバラだ。誰も決めない。誰も動かない。
僕の友人が、今は心理学だよ、と言っていたが、僕は今は哲学じゃないかと思う。皆が、今いるそこからしっかり自分や周りを考えること、結論は動であってもいい、考えること、その事によって「正しい」方向が指ししめられるのではないだろうか。皆が考えないから、「正しい」方向が定まらないのである。
そんなことを考えながら、この正月をすごした。じゃ、僕は何を考え、何をすべきか。それが一番大事なのだ。