学校授業広がる「外注」
表題は2006年1月11日付け朝日新聞朝刊のトップ記事のキャッチである。記事内容は、首都圏を中心とした公立学校で塾や予備校を提携して特別講義をしている。講師は塾から来て、テキストも教える内容も塾や予備校にお任せ、だそうだ。さらに、港区は今年度予算で、30週約2000コマで2200万円程度を計上している。
日本の教育行政や教員達は何を考えているのだろうか。多分、20-30年前は塾は完全に悪者だった。それでも必要悪として社会に巣食ってわけだ。そのうち文部科学省は公教育と塾の共生を認めるようになった。これは10年くらいの間のことだったと思う。そしてとうとう、塾や予備校は学校の中に入ってきてしまった。この次はどうなるのだろうか。
彼らは基本的に何の方針もない中で、行き詰っては現実を受け入れることしかしていない。勿論、様々な教師がいるのは分かっている。上記のような学校もまだまだ少数であることも確かである。でも、この事実に対して先生達はどういう発言をするのだろうか。
僕は今大学で教えていて、何故こんなに考えない学生が多いのだろうと嘆息することがある。そんな時、結局日本の公教育特に公立学校では生徒に考えるということをさせていないのではないか、と思ってしまう。そして、多分今の先生達も公教育の中で考えることを学ばなかったから、考えることが出来ない。考えない教師からは考える生徒が出てくることはない。という、後ろ向きの考えが出てきてしまっている。
以前ゆとり教育の時に書いたように、ゆとりとは学んだことをもう一度考える時間を持つその時間がゆとりじゃないだろうか。結局日本の教育は、そういうゆとりを子ども達に与えられなかったということだ。だから考えず、感情で動く。子どもや若者は基本的に感情や感覚が鋭いから、そういう行動をとる傾向が強いのは当たり前だ。だけど、その一方で考えるという知恵を得る事で、理性的な行動が取れるようになる。ところが、今は考えるという知恵を持つ機会がないから、何時までたっても感情や感覚だけで動くようになってしまっている。
公立の小学校や中学校はもう今や学級崩壊が当たり前になっている。そういうものだと皆思っている。だから、皆子どもを私立に行かせようとする。上記の記事でも、同区内の54%しか公立の中学に行ってないと書いてある。実にクラスの半分くらいが私立に行くというのだ。
ところで、このような小中学校の現象が大学でも起きている。これも前に書いたが、授業中の私語や歩き回り、携帯が当たり前のように見られる。多分ほとんどの学生が講義を集中して聴く、学ぶということが出来ない、そういう意識がない状態だと思われる。彼らのほとんどは反抗という意識はない。つまりそれが普通だと思っている。それを取り巻く学生達も、迷惑とか「バカな奴ら」と思いながらも、それを異常なことだとは考えていない。徐々にそういう小中高教育を受けてきた層が大学にも侵食してきているのだろう。世はまさに少子化で、大学全入時代の到来だ。
企業でも大事な部署や仕事は決して外注しない。外注は強みを捨てることだ。強みをノウハウとして蓄積する事で企業は成長し、存続する。学校は大丈夫なのだろうか。学校はいったい何をするところなのか、そこで教師は何をするのか。教育の理念はどうなっているのか。
我々国民は教育に期待が出来なくなったら、将来を何に委ねたらいいのだろうか。
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