下流社会
今日で後期の講義を終えた、1月にアセスメントを実施しそれをテスト代わりとしており、アセスメントの解説講義もするが、僕自身の講義は終了した。
最終講義では前半、学生が作った4年間のキャリアデザインの発表会をやった。発表会は、グループ分けと発表の形式、シートの書き方を説明して、後は約50分を学生の自主的な運営に任せた。学生の運営はどちらかというと、前期の学生たちの方が計画性や発表方法ともに上手だった。あまり上手くいかなかったことを含め、後期の学生が何を考えたか興味がある。課題でその辺りが表現されたらいいなと思った。
最後の30分は僕の講義にした、今回は三浦環の「下流社会」の前書きと目次を資料として配り、二極分化をテーマに、学生に対して考えるきっかけを放り投げた。
講義や課題を見ても、二分化という現象は様々な形で現れてきている。講義中の集中度ははっきり見て取れるし、課題の書き方についても同様である。僕の講義への不満や批判を考慮しても、それでも二通りの学生像が浮かんでくる。
その二極分化をラフな調査を元に表現したのがこの本である。内容について全てを良しとしないまでも、二極分化について危機感とともに、敬称を鳴らしている。その見方を学生がどう見るか、どう考えるかという投げ掛けを意図したということになる。今回特に着目したのは、近年の下流の特色として金銭的窮乏ではなく、精神的な意欲や意識の欠如ということである。下流だから食べるのに苦労する、TVも無い生活というのとは違い、そこそこモノに溢れた生活をしている、ただ、生きていく意欲や意識が低下しているのが下流だという点である。そうして、彼ら下流は「ダラダラ歩き、武将でいる。それが楽だから」、という発言は僕をしてこの本を読ませた原因となっている。
大学でキャンパスを歩いている学生を見ても、ダラダラ歩いている学生がとても目立つ。まさに、この本で言っている下流のイメージと重なる図をいたるところで見かける。
講義の中では、下流になることについての警鐘というよりは、そういう傾向の時代にどう生きるかを考えることの重要性と考えるきっかけとして位置づけた。社会全体の動きや流れ、傾向を見据えた上で、自分をその中に置いてみる。当然、自分についても考察をしたうえで、その図の中にどう自分を置くか、ということである。それは、自分自身がどう生きるのかを考えることと等しい。
12回という限られた時間の中で、僕の意図をどれだけの学生が受け止めたかは分からないけれど、教壇から見た限りでは、多くの学生が注目して聞いてくれていたように感じる。
課題の返却の中でそれは見ることが出来ることだろう。
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