3回にわたり「大学生の学級崩壊」について書いてきた。読者の方も、なんとなくこの「大学生の学級崩壊」について理解していただけたと思う。最後にもう一度、僕がどういう意味で「大学生の学級崩壊」という言葉を使っているのか。また、この言葉で何を言おうとしているのか。今後、どう展開していくのか、ということを延べてみたいと思う。
実は、その後もう一度「再度大学生の学級崩壊」についてというテーマで学生に課題を出した。再度同じテーマを出したのは、最初の「大学生の学級崩壊」の次の講義で、すでに多くの学生が「大学生の学級崩壊」状態になっているのを感じて、講義の中でもう一度彼らにこの事を問い、課題に出したのである。
その課題の中で、とても印象的だったのは、学生たちの「大学生の学級崩壊」ということの意味の取り方であった。多くの学生が、「大学生の学級崩壊」を文字通り、私語・携帯・授業中の立ち歩きなどにより、授業が成り立たなくなる状態と取っていた。つまり、小学校中学校での学級崩壊と同じイメージだ。
ところで、僕の言う「大学生の学級崩壊」は、実は教室の状態を示しているのではない。そうではなく、その教室にいる個々の学生の状態を指している。私語をし、遅刻し、携帯メールをする学生が、何をしに、どういう意識で教室にいるのか、ということである。
だから、多くの学生が言うように、私語や立ち歩きによる周りへの迷惑の問題がある。あるいは、携帯メールは周りに迷惑をかけるわけではないから、構わないという意見がある。いずれも正しい。しかし、その行為をしている学生に焦点を当てて考えると、両者は同じ問題を示すことになる。それは、「その学生自身の人生に対する責任はどうなるのか」という問いである。ある意味、余計なお世話かもしれないが、「大学生の学級崩壊」は実は、教室の状態ではなく、大学生の今の意識を捉えるための概念なのである。
続く
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