またですかぁ?と国民の多くが諦念の気持ちを込めて呟いていることでしょう。そして、一部の国民が憤りを感じているのでしょうか。多分、多くの人がいろいろな事を考え、思い、発言するのだと思います。で、僕もちょっと考えました。
僕がこの手の問題に出会った時にいつも思うのは、日本人には民主主義が理解されていない、ひょっとしたら民主主義は日本では無理ではないか、ということです。つまり赤城前農水大臣や遠藤農水大臣が悪いことは悪いのですが、それは彼らというか日本人に民主的な生き方を期待する方が悪いのかもしれない。かなりシニカルで、ペシミスティックですね。
義務と責任、議論、論理、公共性、個人と社会、知性等々、民主主義をめぐってはいろいろな概念がありますが、これらの本質的な理解が実は殆どの日本人では出来ていないのではないでしょうか。正直僕自身もきちんと理解している、と言い切れないものがあります。
と言って、だから日本人はレベルが低いとか、ダメだという風に否定的になっているわけではありません。むしろ、中国や韓国なども含め、西洋の民主主義とは違う東洋的な仏教や儒教的な方法が何かあるのではないでしょうか。別に民主主義に固執すると言うか、欧米のキリスト教的原理が一番とは限らないのではないでしょうか。
それがどういう原理か、今言えないのですが、一応当面は民主主義とはどういうものか、と東洋的方法・原理は何かということを少しづつ探求してみようかなと思っています。
例えば「公」「公共」、「公共性」という概念があります。これって、どう理解していますか。学校の授業でも何度か聴いたことがある、つまり習ったことがあることばです。
僕は授業の中でこの公共について少し触れます。社会を考える時に公共と言う概念について僕なりに説明しています。どういう話をするかというと、「道路は誰のものだと思いますか」「大学のキャンパスは誰のものだと思いますか」という問いから始まります。学生からはいろいろな意見が出ます。道路は国や自治体のものというのが多いですね。大学は理事のもの、皆のものなどというのが出てきます。国のもの、理事のもの、というのはとても日本的かもしれませんね。この辺りに、東洋的な方法・原理が潜んでいるかもしれません。
次に僕は、「私のもの」「あなたのもの」「皆のもの」「私たちのもの」という話をします。私のものとあなたのものについては結構明確です。でも、例えば道路を皆のものと考えるか私たちのものと考えるかは微妙に差があることを示します。
私の家が汚れたりするととても気になりますが、人の家だとあまり気になりません。では、皆のものというときの「皆」って誰でしょう。そこの私は入っているのでしょうか。一方、私たちのものには確実に私が入っています。人が公園を皆のものと考えると、平気でゴミや吸殻のポイ捨てやつば吐きをします。でもそういう人でも、さすがに自分の家の中ではつばは吐かないでしょう。だから、公園を私たちのもの、と考えるようになれば公園にゴミを捨てたりすることは無いわけです。
多分公共というのはこういうことではないでしょうか。道路につばを吐いたり、車からタバコを捨てたり、電車の中で。大声で話したり、というのは結局公共性の理解ができていない、したがって民主主義というのもが理解できていないということではないでしょうか。
かなり多くの日本人がこういう状態だとすれば、やはり日本には民主主義は根付いていない、根付かないということかもしれません。だから、今回の、一連の農水大臣の問題は、必然なのかもしれません。
では、僕らは如何したらいいのでしょうか。ご意見をいただけたらと思います。