教育再生会議
《※以下は僕が関わっている協議会のMLで流したものです。ある方が今回の「教育再生会議報告/7つの提言」に対して感想を書かれていたので、僕なりに考えていることを述べました。》
総論的に言うと、どうしてこうも「子ども」という視点を外した案しかでて来ないのだろうというのが、最初の感想。だから、これは教育論議ではなく、政治論議でしかないということです。だとしても、この政治論議は子どもや教師や親に対して、教育という面では多大な影響を及ぼすわけで、困ったものですね。
先般の「いじめ自殺」問題でも、教育委員会や校長・教頭という人たちは、いじめの事実を隠したり、「学校にはいじめはない」などという、子どもの存在の全く見えない発言しかしていません。
ゆとり教育是非問題も同様です。元々が「子どもcentered」(これは造語です)な教育論の素地が、戦後の日本の教育界にはあまりないのではないでしょうか。勿論、子どもcenteredな教育実践をしている教室や先生はたくさんいるのだと思います。でも、僕たちの耳に届く教育論はそういうものではないのです。
だから、2007年の新年を迎えた僕は、20年後か30年後には日本は地図の中から消えてしまうのではないか、という悲観論に陥っているわけです。
さて、2つほどテーマを絞ってこの提言に提言を試みます。
一つは、ゆとり教育論争です。ゆとり教育については、実はそもそもの最初から、「ゆとり」の意味を履き違いえているのではないか、というのが僕の論旨なのです。
Oさんが、現場教師の眼で、ゆとりの履き違いということを書いていました。多分、僕の考えるところと根っこでつながるのだと思います。違う視点で考え、考えを述べることは更なる深まりを呼ぶ可能性がありますね。大事にしなきゃ。
註)Oさんの意見とは下記のとおりです。僕が関係する協議会のMLで、今回の教育再生会議報告に関して書かれていたものです。
『【1】「ゆとり教育」を見直し、学力を向上する
「ゆとり教育」の見直しは、本来の「ゆとり」の意味をこの会議事態がはき違えているという問題を感じます。
3+4=? でいくのであればかつてスタイルでいいかもしれません。
しかし、?+?=7と教えるのであれば、当然時間は必要です。つまり「ゆとり」です。
「イノベーションを生み出す高度な専門人材や国際的に活躍できるリーダーの養成が急務です。
」とありますが、はたしてどちらの教え方がイノベーションを生み出すことにつながるのか?』
さて、僕は例えば何かを習ったり、覚えたら、それについて考える時間を取るということ、これがゆとりじゃないのかな、とずっと考えてきました。僕たちの小中学生のときはまさに詰め込み教育の後半で、高校大学生の頃に世の中はゆとり教育の時代に入ってきました。僕自身は割とマイペースな子どもだったので、結構この考えるという時間を自主的に取ってきました。
例えば、社会の時間は自分で勝手に教科書を読み進んで、地図帳を眺めたり、他の本を読んだりしていました。最終的にはそれほどいい眼を見てなくて、受験の時も歴史(日本史と世界史)は岩波新書で勉強していました。勿論、そんな勉強で大学に受かるわけはなくて殆ど全廃に近い結果でしたが(脱線)。
ただ、そういう自主的ゆとりは僕自身の中に、知的好奇心というものを与えてくれたと、今は思っていますし、感謝しています。
今大学生と関わる仕事をしていて、彼らが考えることに対して持つ「面倒くささ」がとても気になっています。考えれば全てがうまくいくわけではないですが、考えると言う行為なしに、人間的に生きるのも難しいのではないでしょうか。(不可能ではないでしょうが)
もう一つは、いじめ問題です。長くなったので端折ってかきますが、今年後期の僕の授業では学生のいじめ体験を書かせています。このこと自体いろいろあったのですが(http://hospitalityjapan.typepad.jp/poohee/ は僕のブログのURLです。ここで最近このことに触れています)、1)いじめには、いじめられる側、いじめる側、傍観者、の3者が3要素、2)傍観者はいじめられる側輪から見るといじめる側である、3)いじめと遊び・冗談の境界はあいまいだが、いじめられる側が「いじめだ」と感じたとき、それはいじめとなる、4)どの立場に立っていた学生も、その立場にいていい思いをしていないし、今もどうようである、5)いじめが自己防衛として生じることが多々ある(人をいじめてないと自分がいじめられる)、6)学生の90%が何らかの形でいじめ体験をしています。ということは、いじめのない学校はほぼない、と考えた方がいい・・・、等々学びました。
そして、罰はいじめを決してなくさない、その人がいじめの意味を考え、自分で気づくしかない、ということが僕の最大の学びでした。
今回のような提言を出してくる人には、是非いじめを受けて、いじめの意味を自ら気づいてほしいな、と思います。