亡くなった父の弟の妻である叔母が金曜日の夕方に亡くなりました。
私の父方は3兄弟。
父が長男、そして、次男、三男。叔母は次男の妻でした。
父方は学者の家系で、亡くなった叔母の夫であった叔父(故人)も、哲学者、キリスト教研究者でした。
第2次世界大戦後に初の留学生として、三男の叔父も一緒にフランスに留学しました。著名作家の遠藤周作さん(故人)も一緒に留学して、生涯の親友でした。
叔母も大正生まれですが、叔父(故人)や遠藤周作さんと同じK大学を卒業した先進的考え方を持つ日本女性の先駆け的な人でした。
し かし、その生涯は、戦前に東京の裕福な家庭の7人兄弟の五女として生まれ、縁あってカトリックの洗礼を受け叔父と結婚。3人の子供((私の従兄弟(従姉 妹)達))の母でした。若くしてリュウマチにかかりました。何度も手術を受けて、体内には、人工関節が幾つも埋め込まれていました。
米寿(88歳)の祝いをして、その生涯を終えるまで、30代の若さからリュウマチの痛みと戦う人生でした。それでも3人の子供を育て、不自由な体でもキリスト教の教えに従って社会貢献したいと願い、それを実施してきた人生でした。
故人である、叔父は強烈な個性の持ち主で、K大学の文学部長や理事など多忙な日々を過ごしていました。同時にわがままで、典型的な血液B型。同じB型でGoing My Way[なすがまま]の叔母ばでなければ、叔父の妻は務まらなかったと思います。
生 涯の大部分を苦しんだリュウマチの痛みから最後には解放されたのが、私たち遺族の慰めです。老後の長くを長男である従兄の家族と2世帯住宅にして暮らしま した。従兄の奥さんであるYさんには、大変なことが沢山あったと思います。大量の薬がないと痛みに耐えられない状態だったと思います。
ここ2年ほどは、自宅から近い湘南の施設で手厚い看護を受けながら、痛みのない穏やかな最後の生涯をすごしたと聞きました。
近い親族も頻繁に訪れ、最近は本人が言葉を発するのが難しくなっていたものの、意識は最後まではっきりして、ボケることもありませんでした。
今年1月の叔母の誕生日には近い親族が集まり、施設を出て、昔から会食を楽しんできた、湘南の三笠会館で米寿のお祝いをすることができました。
臨終の日も、娘である従妹が叔母を訪ね、叔母も娘と会話して楽しみました。
夕方になり、施設の見回りの方が叔母の呼吸の異変に気づき、近しい親族に連絡が来ました。
長年リュウマチの痛みに苦しんだ叔母の最後は、ほんとうに眠るような老衰の最期でした。最期の苦しみはなかったようです。
ま た、60を過ぎてからワープロを習い、自己の人生の中で特筆すべきことを随筆に残していました。今でいえばブログです。故人の大切な遺産として、姪である 私も、懐かしい思い出と知らなかった叔母の生涯を知るものとして、近しい親族であり、息子、娘の従兄弟たちが用意してくれた書物を頂いてきました。
葬儀は、祖父や叔母の亡くなった主人である叔父と同じ、私にとっては懐かしいカトリック片瀬教会で行われました。私の母校、九段の白百合学園の姉妹校、湘南白百合に隣接された教会でもあり、ひときわ懐かしく感じます。
葬儀の後の会食では、久しぶりに会った親戚が、故人の思い出と近況を報告しました。
私の年齢(秘密??)になると周囲が皆つぶやくのは、自分の老後!
叔母の生涯は、親族以外には知られていないと思います。
でも、リュウマチで不自由な体ながらカトリック教会を通して、社会貢献に努め、近隣住民との交流も最後まで行いました。
そういう意味では、叔母の生涯は私の理想です。叔母のように周囲と融合して人生を終われたら、どんなに幸せだろう!と思いました。
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